もちはだサイト管理人が日頃思うことを綴ってます。ホット一息入れてくださいね~♪
久々にやってしまいました・・・
ガラスのコップにひびの線が入っているのに気がつかず、スポンジごと指を入れて回した瞬間、小指にグサッ。
「あっ!」と思った時には、すでに遅しです。
目線は手先なのに、実際は何も見えていないという、あいかわらずのぼんやり具合に、ちょっと自己嫌悪(-_-;)
なにせ、手先の怪我は、面倒です。
しかも今回のように、ぐっさりとやってしまうと、傷口がふさがるまでそれなりに気をつかってやらないといけないしで、ホントやっかい。
切った瞬間、
「あ~あ・・・」
と大きなため息がでてしまい、それをリビングで聞いた娘が
「どうした~ん?」 の声。
「うん・・・ガラスのコップで指切ってもた・・・・ぁ・・・・・」 と私。
その途端、
「ええっ!!!!!大丈夫なん?血は止まりそう??病院行かんとあかんくらい??」
と、ものすごい勢いで走ってきてくれたので、私としてはその様子にちょっとびっくり。
実は、ずーっと以前、娘がまだ保育園に行きかけた頃、同じシチュエーションで人差し指のつけねを切ってしまったことがあるのです。
その時は、傷が深く出血も多くて、素人目でも「ほっとくのはまずいな・・・」という状況で、夜間の救急病院を探してかけこみ、数針縫ってもらいました。
娘は、この時のことを鮮明に覚えているそうで、記憶の中では、母の命に関わりそうなほどのイメージにインプットされてしまっているらしいのです。
今から思うと、娘のその頃の背丈では、ちょうど目の前に血でにじんだガーゼが来るわけで、その手を押さえながらばたばたと暗がりの中病院に駆け込んで、それは怖かったのだろうと思います。
・・で、幸い、今回の私の傷は、たいしたことなく、
様子を見て落ち着いた娘が、「これからはちゃんと手元を見なあかんよ!」と言いながら消毒とテーピングをしてくれました。
人の記憶というのは、不思議なものですね。
その事柄や出来事だけでなく、自分の感情や気持ちが知らないところで結び付けられてる。
だから、子ども達には、できるだけ心地よい気持ちに結びつくものを体験させてやりたいと、親ならみな思うのでしょうね。
願わくば、今回のことで、
「母親が洗い物のコップで手を切った」という出来事についての娘の記憶は、
恐怖心から「しゃ~ないなぁ~」に上書きされてくれたらいいのになぁ・・と思うのです(^^)
気持ちや考えを表現する方法は、たくさんあると思うのです。
音楽だったり、絵画だったり、ダンスだったり・・。
確かに言葉というのは、たくさんあるツールの中で、最も細かなところまで表現できて、共通した感覚を持ちやすいもののような気はします。
でも、そこに頼りすぎてしまうと、人が本来持っているであろう、繊細で少しあいまいでゆるやかな感覚が薄れていってしまうような気もするのです。
Aという感覚を持ちながらもBという言葉を発してしまったら、その人はBの人。
Cという感覚を持ちながらもBという言葉を発したなら、その人もまたBの人。
Bという感覚を持っているのにAという言葉しか思いつかなかった人は、Aの人。
Aだという信念に近いものを持ってAという言葉を発すれば、まぎれもなくAの人。
言葉は、そんなふうにグループを次々に作っていくような気がします。
そして、本来持っている感覚を少し表現方法を間違ってしまったなら、ずっと違和感を感じながらそのグループにいるコトになってしまう場合もあるかもしれません。
そもそもその『グループ』というのが、何なのか・・ってこともあるのでしょうけれどね(^.^)
その昔、江戸から名古屋まで飛脚の早便でも4日かかっていたそうです。普通便なら8日程度。
今発する言葉が、相手に届くのは8日後です。
大阪や九州へとなると、気が遠くなりそうです・・・。
そんな状況の中で、手書きの文字で綴られる言葉の一つ一つには、どれほどの思いが込められていたことでしょうね・・・
現在はというと、地球の裏側でも、メールなら約1秒。「あっ」の息継ぎをする間もないくらい。
世の中、これだけ手軽に大量の文字を送れるようになると、一つの意味に一つの言葉。一つの思いに100の言葉?!
とても細かなところまで伝えられるメリットは大きいかもしれないけれど、そうなってくると、それらは詳細な「情報」に類する気がしてくるのです。確かに・・「情報」は、多いほどありがたい。
でもね、心を表現するのは、情報じゃない・・・
大量の文字列を受け取ることに慣れてしまうと、今度は、情報をもらわないと心が満足しなくなる。
・・というか、不安になる。
満たしてくれるのは、何ですか・・・・?
この数日、一気にページを創る中で、ふと感じて、自分なりの表現を大切に作業を進めたら、とても楽しかった♪
だから、日々のメールを重要なツールとして使わせてもらっている中で、ここは、あえての・・・。
でもでも、決して、綴る言葉に思いを込めていないということではありませんので、あしからず(^^;
言葉を大切にしながらも、言葉にとらわれすぎぬよう、
自分の得意なやり方で、自分の好きな形で、自分の心が落ち着く方法で、表現をする。
そして、いろんな人のいろんな表現を、心で見ることができるような懐の深さを身につけていく。
ますます自由にのびやかに・・・
人生の勉強は、まだまだこれから・・ず~っとつづく・・・・ですね(^^)♪